小兵の超ベテランやす子さんの歴史と美濃焼 |トピックス|株式会社カネコ小兵製陶所 小兵の超ベテランやす子さんの歴史と美濃焼 |トピックス|株式会社カネコ小兵製陶所

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小兵の超ベテランやす子さんの歴史と美濃焼


2026年1月に80歳を迎えた小兵の最年長やす子さん
彼女の半生と昭和のころ美濃焼を照らし合わせると感慨深いものがあります。
やす子さんは生まれは九州で15歳で集団就職で美濃焼の地へ。
集団就職とは1950年代(昭和20年代後半)から1970年代(昭和40年代)にかけて
日本は戦後の高度経済成長により都市部の労働力が足りなくなり、また地方では働く場のない若者が職を求めて各地へ働きに出ていきました。
若くて貴重な労働力であることから「金の卵」ともてはやされ「金の卵」たちは、東北や九州から「集団就職列車」という専用の臨時列車で働く場所へ、この美濃焼の地へもやってきました。
まだ幼い15歳で親元を遠く離れて働くのは並大抵ではなかったはず。
やす子さんも集団就職列車で土岐市につき、初めは隣の妻木町で働いていたそうです。

妻木町は当時貿易が盛んで海外向けの焼き物、主にカップ&ソーサーを大量に作っており、作れば作るだけ売れた時代だったので、1つの工場で500人ほど働いていたそうです。
妻木町だけでも1社500人以上の工場が何件もあったそうですから美濃焼全体からしたら、当時どれだけたくさんの労働力が必要だったかがわかります。これは窯業界だけのことではないので日本中が高度経済成長期でたくさんの労働力が必要だったため、集団就職列車というのが全国に金の卵を運んで行ったのです。
どういういきさつで美濃焼の地へ来たのかはわかりませんが、やす子さんの人生のほとんどは美濃焼とともに生きてきたということになります。

兄弟もみんな土岐市で美濃焼に携わる仕事についていたので、まったく独りぼっちではなかったようですがそれでも初めは親元を離れて働くのはつらかったそうです。
なれない仕事だけでなく、掃除、洗濯も全部自分のことは自分でやらなくてはならないのがつらかったといいます。
こちらに来て2ヶ月が経ちその寂しさに耐えきれず下石町にいるお兄さんを頼って、妻木町の工場から下石町の工場に移ったそうです。それからずっと下石町で暮らし、結婚し、子供を育て、今に至ってます。小兵には今年で22年目に、そして美濃焼に携わって60年以上!美濃焼の生き字引のような方です。
やす子さんのように集団就職で来た人たちは、かなり高齢化してますが、長く現役で働いてらっしゃる方も多いです。
それは過酷な環境で働き続けてきた忍耐力が何歳になっても元気に働くからだにしてくれたようです。
いろんな時代や環境を乗り越えてきたからこそのパワーを感じます。本当に明るく元気です。
小兵の現在のスタッフは平均年齢は40代後半です。子供や孫たちくらいの仲間と一緒にいつも明るく働いているやす子さん、このモチベーションはどこから来るのか聞いてみました。
仕事が好きで好きで仕方がない。家にいても退屈でしょうがないので仕事に来るそうです。
趣味は白菜漬けを漬けること。(毎年みんなでいただくのが楽しみです)
それから「餅拾い」。これはこのあたりの行事でおめでたい事、神社のお祭りや、昔は新築の上棟式、結婚式などに高いところから丸餅を投げてそれを集まった人が取り合うという行事。楽しみのあまりなかったころから、こうした行事が何よりの楽しみだったようです。奪い合いになったり、当たったら痛いのでなかなかハードなイベントですが1個でもたくさん拾うことが楽しいそうです。
やす子さんはそれが大好きで、今はお祭りの時ぐらいしか行われないですが、いろんな神社のお祭りへ出張餅拾いに出かけます。拾った餅は食べきれないので会社に持ってきてみんなで食べたりします。
そんな元気なやす子さんが少しでも長く小兵のメンバーでいてくれることをみんなが願ってます。

やす子さんが凄いことは言うまでもありませんが、窯業界は技術革新、機械化が進んがとはいえ、ハンドメイドに頼る部分がまだまだ大きくそれが味であったり良さでもあり、だからこそ60年以上もその技術を生かして働くことができているとも言えます。すべて機械ではできない仕事って一周回って素敵なことなのかもしれませんね。
美濃焼の歴史と共に生きながら、変わらない手仕事を続けてきたやす子さんのような金の卵たちが今の美濃焼を支えてきたと思います。