小兵HISTORY|HISTORY

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小兵の歴史

小兵窯の創業

大正10年(1921年)10月、岐阜県土岐郡下石町阿庄(おろしちょうあしょう)の山の上で伊藤小兵(こひょう)の手により「カネコ製陶所」が誕生いたしました。創業当初は今ある会社の少し下の東向きの斜面にあった共同の登り窯で、主に神仏具を焼いておりました。
下石町は昔から流し込み成形(通称ガバ鋳込み)に適した陶土が採れ、袋物(花瓶、神仏具、徳利など)が得意な産地でありました。戦後初代小兵の息子である伊藤皓美が家業を継いだころから、日本の経済が発展し成長期をむかえる中で、得意の流し込み成形が生かせる商品はないかと模索しておりました。
そこで目をつけたのが当時宴会や居酒屋で使われていた熱燗用の徳利(銚子)でした。高度成長に伴い、注文が増え、ピーク時の昭和40年代後半ごろには、月に13万本、年間160万本の生産をしておりました。
その生産数量は、当時徳利の生産量日本一といわれていた長崎県波佐見の窯元より月に数万本多い数量でしたので、まさに日本一の生産量を誇る窯元でありました。言い換えれば、他の国では日本酒を熱燗で飲む文化はなく、徳利も生産する国もなかったことから、世界一の生産量を誇る徳利の窯元であったともいえます。

徳利の小兵さん

小兵窯の徳利(銚子)生産のピークは、昭和40年代後半です。
月に13万本、年間160万本の生産量でした。
この地域は、昔から登り窯で「やきもの」を焼いていましたが、良質な松割り木が入手困難になったことや石炭や重油等による熱効率のよい窯が開発されたことにより昭和41年(1966年)には下石町から登り窯が姿を消しました。小兵窯も登り窯から石炭窯、そして昭和45年(1970年)には生産能力の高い重油によるトンネル窯を建造しました。この窯が徳利生産世界一をもたらし、旺盛な徳利の注文に答えてきました。なかでも生産が多かった徳利は、主に業務用で日本酒の酒造メーカー(造り酒屋)が、居酒屋や旅館、レストランなどに日本酒を販売するために販促用として名前を入れた徳利で、「印もん」と呼ばれていました。当時、酒造メーカーは全国で3,000社ほどあるといわれ、小兵窯はそのうちの1,000社ほどの名前を入れて生産をしておりました。

こうした販促用の名入れ徳利の製造に関して、特に技術を要するところは、容積でした。居酒屋や旅館で使用する際、一本一本中に入る日本酒の容積が違っては商品になりません。しかしやきものは、焼成前と焼成後では、約一割縮みます。また石膏型で成形するため石膏の減りがあったり、採掘した粘土の層により収縮率が違うので、成形や製造の際には細心の注意を払い、その技術を向上させてきました。世界一の徳利生産量を誇った小兵窯には、このような生産技術の裏づけがありました。

消費者の飲むお酒の多様化により、平成5年(1993年)ごろから徳利(銚子)の注文は減少の一途をたどりました。年を追うごとに加速度的に減少し、平成21年(2009年)現在では、徳利の注文は月に2000本を割っています。
長年続いた徳利の生産だけでは、小兵窯も立ち行かなくなると考え、平成7年(1995年)ごろから生活雑貨としての食器の開発、生産に乗り出しました。現在は、今まで小兵窯で培った技術や、特に窯の焼成方法が還元焼成という特性と生活者の視点からみた新しいやきもに挑戦しています。